戦後間もない頃、日本にはまだ荷馬車や木炭車が走っていました。しかし石川県小松市では、小松空港(旧海軍航空基地)が米軍の駐屯地だったこともあり、軍用トラックをはじめとする、米軍のディーゼル車が走り回っていました。日本がまだ貧しく仕事がなかった時代ですが、北菱の創業者(現代表取締役の祖父)とその弟はそこに目を付け、1950年に自動車修理業として「小松自動車商会」を設立したのです。そこから、北菱の歴史はスタートしました。考えていた通り、当初は米軍のお客様が多かったのですが、日本にモータリゼーションの流れができはじめたのもちょうどこの頃。おかげでひっきりなしに依頼が入り、1日に4食を食べ、毎日朝から晩まで仕事があったといいます。まだまだ、日本には馴染みのないディーゼル車でしたから分からないことも多くありましたが、少しずつノウハウを蓄積しながら技術を向上させ、世の中の動きにうまく乗ることで会社としての安定的な土台をつくりあげていきました。
1960年代に入ると、日本は高度経済成長期を迎えます。その頃、三菱重工がフランス(ユンボ)の掘削用油圧建設機械(油圧ショベル)を持ち込み、国産化を開始しました。しかし、当時の機械ですから故障も多く、現場でうまく活躍できるレベルではありません。三菱重工はこの油圧ショベルの修理ができる会社を全国で探しましたが、日本ではじめての機械です。北菱の地元である小松市の某建設機械メーカーですら、まだつくっていなかった時代ですから、修理のノウハウを持つ会社は見つかりませんでした。そこで、「ディーゼル車(トラック)を取り扱う会社なら修理できるのでは」ということで、白羽の矢が立てられたのが北菱だったのです。そして1963年、建設機械において北陸三県で唯一の三菱重工製品の総販売代理店をやっていくことになり、北陸で三菱重工の製品を扱うということで「北菱重機」と社名を変更しました。
三菱重工との取り引きを開始してからは、建設機械の販売・修理は世の中の動きに乗り、数多くの依頼をいただきました。お客様に喜んでいただけるのであればと、ご要望は絶対に断らない姿勢を貫いた結果、顧客数は1,300社以上、管理機械数は2,800台以上に。地元密着型の対応で、多くのお客様から信頼・評価をいただけるまでに成長することができました。そして1973年には、修理の一環として部品の製造を行っていた部門の専用工場が完成し、現在にまで繋がる「建設機械部品の製造事業」が本格的にはじまることになります。しかし、ここから順風満帆とはいきませんでした。私たちが成長すると同時に時代は進み続けます。1980年代に入ると建設機械は日本で一気に普及したのです。もはや当社だけの専売特許ではなくなり、三菱重工でも自社で製品を製造するとともに、自社の販売店における全国展開計画を打ち出すことになりました。その結果、三菱重工は北陸の販売店として北陸キャタピラー三菱(北陸CM)という会社を設立し、1987年に当社は代理店契約を返還することになりました。これにより、120名の社員のうち7割以上が分離・移籍をすることになってしまったのです。
この時、社名を「北菱」に改め、残った35名で再スタートを切るも、規模の縮小は防ぎようがなく、65億円あった売上が10億円まで落ち込んでしまいました。もうだめかもしれない。残った社員には、そんな気持ちもありました。ですが、売上は落ち込んだとしても、それまでに培ってきたものまでもが失われてしまった訳ではありません。代理店契約をしていた頃は販売がメインでしたが、身に付けた技術とノウハウを使い、三菱重工の建設機械部品の製造取引を中心に規模を拡大していきました。そして、日本のものづくり需要が高まっていたこともあり、売上縮小は3〜4年で取り戻すことができました。
1960年代から取り扱いはじめた建設機械は、売上の大半を占めていました。しかしながら、創業のきっかけとなった自動車修理の延長で特殊車輌の修理も継続して行っており、地域密着型で誠実にその事業を育ててきていたことが、次の転機に繋がることになります。そう、地元で深い関係性を築けていたお客様から、下水道管維持管理ロボットに関する依頼が舞い込んできたのです。公共事業が高度化し、特殊車輌や建設機械に加え、お客様によっては下水道の管理までもしなければならなくなったということが、依頼をいただいた大きな要因でした。ですが、特殊車輌の修理・改造、建設機械の部品製造の経験があるとはいっても、下水道管維持管理ロボットの開発に特定の技術を流用できた訳ではありません。誰もつくったことのないモノをつくるというチャレンジ精神と、お客様のご要望にお応えしたいという一心で全力を尽くして取り組みました。考える前にまずやってみる。そんな考え方を大事にしたのです。人が入れないような狭くて丸い管に合わせて、コンパクトにしつつもパワフルで正確な作業ができるロボット。決して平坦な道のりではありませんでしたが、私たちは、これは必ず世の中の役に立つモノだと信じ、何年も何年も改良を繰り返し、ついに1984年に下水道管維持管理ロボットの商品化に成功しました。北菱の新しい事業としての一歩を踏み出しはじめたのです。
しかし、そこから10年後の1994年、主力である建設機械の売上の6割を占めていた一番の取引先メーカーが、倒産してしまうという事態が起こってしまいました。結果としては、必死で営業を行い、仕事をかき集め、2〜3年ほどで元の売上に戻すことができたのですが、それはまだ日本に建設機械の市場があったからこそ。この市場が縮小してしまうと、また仕事がなくなりかねません。事実、高度経済成長期を終えた日本において、建設機械の市場は小さくなり、その製造は発展途上国へとシフトしつつありました。この状況を踏まえ、北菱はまた新しい挑戦を行うことに決めたのです。
今後、日本が、世界が求めるものづくりは何なのか。そう考え続け、エレベーター部品、自動ドア部品、フォークリフト部品、防衛関連、原子力関連、エネルギー関連、鉄道車輌部品など、様々な挑戦を行ってきました。しかし、他の会社にもできることでは意味がありません。それまでに海外に仕事を取られてしまうような悔しい思いもしてきました。北菱でなければできないこと、北菱でなければだめだと思っていただけることをやらなければならない。すなわち、「MADE IN HOKURYO」という確固たるブランドをつくりあげる必要があったのです。そして、最終的に目を向けたのが、ここ20年で需要の倍増が見込まれている航空機産業でした。そのきっかけは、キャタピラー社製品の溶接を行っていた2007年に、油圧部品の精密機械加工部門を立ち上げ、新設工場を新築したことにありました。航空エンジン燃焼器部品も機械加工の分野。大型航空機のエンジンは最も熱が加わる部分であり、素材(ニッケル合金)の加工が非常に難しく、技術力と大型の設備が必要になりますが、これまで磨き続けてきた技術とチャレンジ精神をもってすれば、勝負できると考えたのです。
機密情報の多い業界ですから、閉鎖的で中々情報が入ってきませんでしたが、石川県や東海地区の商工会議所等に働きかけることで少しずつ情報を集め、「北菱も参入したい。そのための設備は整えている」と、経済産業省主催の新規参入を募る催しに参加したりなど、決して諦めることはありませんでした。すると、その活動が徐々に実を結び、川﨑重工や三菱重工など国内大手重工系メーカーとの面会も県の方と一緒に訪問することで実現し、少しずつ情報を集めながら、熱意を伝え続けていきました。ちょうどそのタイミングで、北菱の新規参入を手助けしていただけるコンサルタントの方に出会えたことも幸運でした。そして2019年、アピールを続けた結果、三菱重工航空エンジンとの航空エンジン燃焼器部品の取り引きを開始するに至るのです。新規参入で取り引きを開始できたのは、北菱がはじめてでした。
北菱は、自社製品を持ったメーカーです。技術力、設備力、そして人の力で、国内はもちろん海外にも、私たちの製品を発信することで世の中に貢献していきたいと考えています。新しく挑戦をはじめた航空エンジン燃焼器部品の製造は今後、世界中の人の夢を運ぶ製品として、北菱の主軸になっていくでしょう。これからも私たちは、お客様に貢献し、ニーズに応え、喜んでいただくためにその力を磨き続けます。そして、「潰れたら困る」と思っていただけるような会社を目指し、これからの歴史を紡いでいきます。